第5部-補章

1401 地域格差

 わたしたちの生活は、戦後急速に向上しました。その背景となった経済成長は、朝鮮戦争による特需をきっかけとして始まりました。高度経済成長初期には、当時最先端の技術をアメリカなどから導入し、改良や独自の技術開発によって工業生産力を拡充して輸出を拡大しました。しかしそのころはまだ、工業生産の機械化は進んでおらず、生産現場を支えたのは、地方部からの集まった若年層を中心とする人口でした。

 人口ボーナス期とは、生産年齢人口率が急速に上昇することによって経済活動が推進される期間を指します。昭和初期から出生数は増加しており、その世代の人口が生産年齢に達した1950年代から1970年ごろまでの日本はまさに人口ボーナス期でした。なかでも東京大都市圏や大阪大都市圏、名古屋大都市圏は、若年層が集中することによって、人口ボーナスが集約された状態でした。逆に地方部は、人口ボーナスを提供したものの、産業基盤や体制に乏しく、恩恵は薄かったとみられます。

 都市への人口集中の原因は都市部と地方部との経済格差です。1950年の農業就業率は男性4割、女性6割であり、その大部分が家族での営農でした。他方、東京を典型として、都市部では地方部よりも雇用機会が多く、高い賃金が期待できます。それが都市部に人口が集中した主因です。

 地域格差は戦前にも存在したと推測されますが、人や物資、情報の流動性は低いものでした。戦前の産業は農業が中心で、農村には、土地に定着する以外の選択肢は少なく、高賃金の職業も多くはありませんでした。立場や生業などによる地域内の格差の方が大きく、他地域との格差はさほど意識されていなかったと推定されます。また物流や情報も限定的で、それぞれの地域が、今日よりも閉鎖的な経済圏を形成していました。そのために高度経済成長期のような都市部と地方部との経済格差を実感する機会は少なく、あえて他地域に移動することも少なかったといえます。

 戦後になり、工業生産の増強や商業・サービス業が拡大することによって、都市部に雇用機会が生まれると都市部への人口移動が始まりました。また建設活動が活発だったために、農村からの出稼ぎ労働者も増えました。農家にとって都市は、就業地として収入を得る場所であり、都市にとって農村は安価な労働力を得ることのできる場所でした。

 雇用機会や高賃金だけでなく、利便性や文化的環境、都市らしいサービスを享受できることも都市の魅力として認識されていました。しかし他方で、公害や過密居住など生活環境も良好でないところがあり、もともと住居費をはじめとする物価が高い上に、都市の利便性・快適性やさまざまのサービスを利用しようとすれば生活費はさらに膨らみます。都市生活の高収入は高コストを伴います。

 東京都区部の世帯収入は全国平均を上回っていますが、食料費は2割程度、住居費は5割前後高いなど、物価は高水準にあります。さらに教養娯楽費、被服及び履物費は全国平均を2~3割上回っています。ところが、都市の生活が家計には厳しいと思われるのもかかわらず、人口が都市に偏在する傾向が弱まっているようにはみえません。

 都市部と地方部の経済格差は、全国総合開発計画の影響もあり、高度経済成長期の直後の一時期は縮小したようにもみえました。しかし地方部の企業誘致は計画されたようには進まず、産業構造も、鉄鋼業や造船業など従来の重厚長大産業から電子機器やソフトウエア、サービス業などの高付加価値産業へと転換していきました。このような産業構造変化にも都市部が先に対応し、とりわけ東京都には、企業の中枢機能や開発機能、経済活動全般に影響を与える金融機関が集中するようになりました。地方部には企業戦略のもとに工場などが立地していきました。産業や資本、雇用機会の都市集中を背景として、バブル経済崩壊後の一時期を除いて、首都圏、とりわけ東京都への人口集中は続きました。

 東京都の地方税収入は、過去20年程度でみると全都道府県合計の地方税収入の1/4に達し、都民一人当たりに換算しても突出しています(地方財政状況調査・都道府県分)。企業数が多く、法人住民税や事業所税の金額が大きいことに原因があります。一方で、人口や産業が縮小している地方部の自治体は、独自の収入が減少し、国からの補助金も減少する中厳しい運営を迫られています。

 都市部と地方部との格差は、人口だけでなく産業活動や賃金、利便性さまざまの面に存在し、いっそう拡大しているようにみえます。


前の目次項目へ        次の目次項目へ

前のテーマ項目へ  【テーマ:国土と人口動向】  次のテーマ項目へ