0602 人口の郊外転出

 1960年ごろ、20歳前後の若い世帯は都心周辺に増加し、多くは寮や間借り、下宿、借家に住んでいました。東京都では1955年から1960年にかけて、新宿区や豊島区、練馬区などの借家が2.5倍以上に増加し、新宿区と豊島区では借家が50%以上になりました[*6-10]。一方で、都心周辺や郊外に、持家や分譲住宅がつくられていきました。
 1960年に東京都心13区に通勤・通学で流入していた人数は149万人で、その内訳は、周辺10区からは94万人、都下から14万人、他県からは41万人でした[*6-11]。この人数には都心13区のなかに居住して通勤・通学している人数は含まれていませんので、通勤・通学圏は都内を中心としていたとうかがわれます。

 ところが1970年になると、都心13区への通勤・通学者247万人のうち、周辺10区は112万人に、都下も33万人に増えましたが、他県からの通勤・通学の流入が102万人と大きく増えました。これ以降、他県からの流入数が増えていきました[*6-11]。

 東京都区部では、1960年以降まず都心3区などで、1970年ごろからはその他の区でも人口減少に転じました。ただし都心からやや離れた練馬区・板橋区・江戸川区では1950年代に増加し始め、それ以降も増加し続けました。さらにその外縁部の調布市、東久留米市や、埼玉県の川口市などでも1960年前後から増加が始まりました。その後1970年ごろからは、さらに外縁部の多摩市や八王子市、埼玉県さいたま市、千葉県市川市、千葉市などでも人口増加が顕著になってきました。人口が増加する住宅地は次第に都心から遠方に広がっていきました。

 
 図 東京都区部と周辺市町村の人口増減(1950-1970年)
 
 図 東京都区部と周辺市町村の人口増減(1970-1990年)

 大阪の人口動向も1950年から1970年までは同様でした。1960年代から都心人口が減少し、大阪市内の周辺区や、豊中市、吹田市、東大阪市、堺市などの近傍地域が、人口増加の中心でした。その後は、大阪市内のほとんどの区で人口減少がみられ、人口増加は、やや遠方の茨木市や高槻市、奈良市などに中心が移りました。

 
 図 大阪市と周辺市町村の人口増減(1950-1970年)
 
  図 大阪市と周辺市町村の人口増減(1970-1990年)

 既述のように、東京都では1950年代から1970年代にかけて20歳前後の人口が増加し20歳代後半に転出する傾向がありました。それに対して千葉県や埼玉県では1970年代から30歳前後の人口が増加しました。20歳前後の人口は都心周辺の借家に、20歳代より上の人口は家族人数が増えたなどの理由で周辺10区や都下、周辺県の借家や持家・分譲住宅に移ったと推定されます。

 郊外開発は、都心やその近くの居住環境が必ずしも好ましくなかったことと、郊外一戸建て持家志向とによって進展しました。とはいえ早朝から深夜まで営業する飲食店や店舗、工場の自営業者やその従業員たちにとっては職場と住宅を遠隔化することは困難です[*6-12]。郊外に転出するのは職住関係の遠隔化が可能な、都心に電車で通勤するサラリーマンが中心でした。企業の通勤手当は、1950年には19%の事業所しか採用していませんでしたが、1960年には55%、1969年には82%が採用するようになりました[*6-13]。

 国鉄と民営鉄道の定期利用の旅客輸送人員は、首都交通圏では1955年に19億人でしたが、1960年に28億人、1970年に46億人、1990年に105億人となり、1995年には140億人に達し、その後は伸び悩んでいます。京阪神交通圏では、1955年に10億人、1970年に28億人に増加しましたが、その後にはさほど増加せず、2000年からは減少しました。

   
 図 首都交通圏の定期券利用延べ人数  図 京阪神交通圏の定期券利用延べ人数

 サラリーマンは、単独世帯や結婚直後は都心近くの借家に居住する傾向がありますが、子供が生まれると借家は狭くなります。当時、住宅は圧倒的に不足しており、借家は戦前からの木造住宅や単独世帯や小規模世帯むけのものしかありませんでした。持家物件もありましたが、市街地の物件は高額でした。地価水準の低い郊外の住宅が選ばれたのは当然の成り行きでした。


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