0603 郊外住宅地の開発

 郊外住宅地開発は明治時代にもありました。関西では1910(明治43)年の池田室町(大阪府池田市)や1922(大正11)年の千里山(同・吹田市)、1931(昭和6)年の大美野(同・堺市)、関東地方では1923年の田園調布(東京都大田区)などが有名です。これらは電鉄会社や金融会社が土地を取得して宅地・建物を販売するものでした。1910年ごろの東京府小学校教員の初任給は月額10円程度、東京府知事の年俸が4千円弱で[*6-14]、池田室町の販売価格は2千5百~3千円でした。当時の住宅価格は高額で、しかも今以上の所得格差がありました。購入者のほとんどが企業や団体の管理職以上だったといわれます。

 戦前には今日のような住宅ローン制度はありませんでした。池田室町には開発者自身による割賦制度があったものの、それでも庶民が持家を手に入れるのはほとんど不可能でした。言うまでもなく、分譲住宅や分譲宅地は明治末期以降にあらわれた住宅供給方法です。それ以前には、自ら土地を得て(家主が建てる貸家を含めて)注文住宅を建設することが一般的で、都市部での住宅所有は富裕層など一部に限られていました。戦後に人びとの住宅取得が広がった要因は、所得上昇と住宅供給方法の変化、ローン制度の導入、建設技術、交通手段などの発達によるものであるといえます。

 戦後の郊外住宅地は1960年代から開発がされていましたが、1970年前後からはさらに開発が活発になりました。1961年までの住宅地開発は建築基準法の規定が適用されるだけで、造成方法や道路形状などに問題のあるものが少なくありませんでした。1961年に1万㎡以上の開発を対象として住宅地造成事業法が公布され、1969年には千㎡以上の開発を対象とする開発許可制度が施行されました。さらに開発を指導・規制するためと、人口急増による公共公益施設整備のための財政負担などの問題に対処するために、1967年に大阪府川西市が宅地開発指導要綱を策定したのを皮切りに、都市郊外の自治体が独自に要綱などを定めるようになりました。

 開発許可制度による住宅地開発は、三大都市圏で1971年からの10年間に山手線内側面積のほぼ3倍ほどの201㎢におよび、その後も同程度の開発が進みました。その多くは都心から離れた郊外地域でした。開発許可制度以外にも、土地区画整理や公的開発制度、制度によらない開発など、住宅地開発が進められました。

 1968年4月28日の朝日新聞[*6-15]は、藤沢市などの宅地分譲が即売していると伝えています。その理由として世帯所得の上昇や住宅ローンの普及のほか、当時は金兌換だったドルが不安定になったため、投資目的の購入者がいる可能性も指摘しています。

 公共による住宅地開発は日本住宅公団(現・都市再生機構=UR都市機構)や地方住宅供給公社などによって行われましたが、小規模な開発で多数の住宅を供給しようとすれば時間も手間もかかります。一方で郊外に大規模住宅地を建設すれば一挙に多数の住宅を建設できます。大阪府では住宅不足解消の切り札として、企業局を中心として千里ニュータウンを開発し、1962年に第1期入居が開始されました。千里ニュータウンは計画人口15万人、12の住区と3つの地区センターで構成されて、住区と地区センターに商業施設を備え、公営や公団、住宅供給公社の賃貸住宅、民間による一戸建て分譲住宅などが建設されました。公共によるニュータウン開発は各地で行われました。大都市圏でのニュータウンとして、1968年には愛知県の高蔵寺ニュータウンで、1971年には東京都の多摩ニュータウンでの入居が始まりました。


前の目次項目へ        次の目次項目へ

前のテーマ項目へ  【テーマ:住宅・住宅地】   次のテーマ項目へ