06.都市環境の変化

0601 都市環境の悪化

 東京都区部の人口密度は、1955年に1万2千人/㎢で、1965年には1万5千人/㎢を超えました。なかでも台東区と豊島区、荒川区、品川区は2万6千人/㎢以上の高密度でした。台東区の人口密度は1955年には3万1千人/㎢に達しました。台東区は古くからの下町であり、荒川区、品川区は戦前から工業が発達して人口が増えた地域です。豊島区は戦前に住宅地が形成され、戦後も木造アパートが密集した地域でした[*6-1]。

 大阪市も1965年に1万5千人/㎢となりました。大阪市は、臨海部や河川・水路沿いに工場が多く立地しており、その従業員が居住していました。なお戦前の大阪市の都心区と臨海側の諸区は、区によっては戦後の最大人口の2~3倍の人口でしたし、東京都の都心区や台東区、墨田区、江東区、荒川区なども、戦前にはいっそう高密度でした。

 
 図 人口密度

 都市に事業所・工場が集中すると、大気や水質が汚染され環境が悪化します。戦前にも、工場の騒音や煤煙、汚染物質の河川放流などや汽車の煤煙や騒音、家庭やビルの石炭暖房による大気汚染がありました。都市部では石炭を燃料とする工場が林立し、洗濯物に煤がつくなど生活への影響が大きく、多くの市民が結核にかかりました。明治後期から大正時代の大阪は産業活動が活発で「東洋のマンチェスター」と呼ばれましたが、煤煙などの公害もひどく、市民生活を脅かしていました。

 箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)創始者の一人である小林一三が1909年に、郊外住宅地の発売に際して「住宅地ご案内-如何なる土地を選ぶべきか・如何なる住宅を選ぶべきか」というパンフレットを発行し、その冒頭で、「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」と呼びかけたことは有名です[*6-2]。

 戦後に産業が復興するにつれて公害は再び問題となりました。都市人口が戦前よりも増加したために公害被害はより深刻になりました。1949年には東京都が工場公害防止条例、1950年には大阪府が事業所公害防止条例を制定しました。しかし騒音、振動や煤煙、水質汚染などの問題は、工場が市街地にある限りは避けられません。さらに人口の増加によって、工場公害だけでなく、洗剤など家庭排水による汚染も深刻となりました。

 1965年の「中小企業白書」[*6-3]は、「わが国の中小工業は、自然発生的形態で発展してきたものが多いため、今日においては、かえってそれが企業合理化の障害の一因ともなっており、この傾向は、市街地の急激な過密化とともに、工場敷地の狭あい化による災害の増加、生産能率の低下、あるいは都市機能のまひによる公害の発生等、ますます憂慮すべき状態になってきている。」「多くの問題点を解決するためには,高度の共同化を中心として、中小企業者が一定の地域に集まって専業化、協業化等による経営の合理化を図り、集積の利益を享受するのが一番よい方法と考えられる」としています。

 東京都では、1967年に江東区の化学工場が福島県や千葉県、群馬県、茨城県に移転し[*6-4]、大阪市では1970年に鉄工関係の工場が岸和田市や臨海地区に移転するという動きがあらわれました[*6-5]。市街地内にあった工場の多くが移転を余儀なくされ、その一部は、その後に住宅用地として利用されることになりました。

 全国的にみるならば、高度経済成長期の前半には、三重県四日市市や大阪市西淀川での大気汚染、熊本県水俣や新潟県阿賀野川、富山県神通川での水質汚染などが社会問題化し裁判が起きました。1967年に公害対策基本法が施行され(1993年に環境基本法により廃止)、1971年に環境庁が発足しました(2001年に環境省)。行政的な対応と、煤塵・化学物質の除去・低減や騒音防止の技術開発などの環境対策の積み重ねによって、一時期のような甚だしい公害は少なくなっていきました。

 
 図 環境汚染指標

 都市部ではもちろん全国的にも、産業は第3次産業が中心となってきました。第2次産業は、従来型の工場が市街地に存続することは難しくなり、技術の発達とともに管理や開発・企画、情報などの機能に重点を置く都市型工業へと変容していくことになりました[*6-6]。この都市型工業化が進むことで、合理化・効率化のために経済活動は集約、集中され、東京集中を促進することになりました。

 高度経済成長期には、とりわけ大都市で交通問題が深刻化しました。1963年「国民生活白書」[*6-7]によると、「とくに東京、大阪などの大都市では、産業、人口の集中により交通量が著しく増加したため、交通施設とのアンバランスが顕著になり、深刻な交通難が生じている。・・・通勤通学人口が激増したのに対し、輸送機関の整備が相対的に立ち遅れたため通勤通学時の著しい混雑をまねいており、また自動車数の激増に道路整備が追いつかず、道路交通のまひがしばしば発生している」状況でした。

 1960年前半の保有自動車数は5百万台程度であり、今日の約8千万台にくらべるとごく少ないと言えます。それにもかかわらず、交通事故の発生件数は年間40万件から60万件に達し、死者数も12万人から15万人になっていました。これらの数字は、車両数が飛躍的に増えた今日とくらべて大きいものでした。交通事故による死者数が、戦争による死者数にも匹敵して多いことが社会問題となり、「交通戦争」とも呼ばれました。事故の多さは、人々が自動車に慣れていなかったことはもちろん、道路が狭く、舗装も不十分だったこと、歩道やガードレール、交通標識などの安全設備が未整備だったことが原因でした。

 
 図 保有自動車数と交通事故死者数

 通勤列車の混雑もひどかったようです。1966年「国民生活白書」[*6-8]によると、首都圏の国鉄(現・JR東日本)山手線、横須賀線、京浜東北線や東武鉄道東上線、京王電鉄京王線、地下鉄銀座線などの都心駅近くの区間では、1955年と1965年の調査ではいずれも定員の2~3倍の乗車率でした。名古屋でも名古屋鉄道で約2倍、大阪でも東海道線や京阪神急行(現・阪急)、近鉄の一部区間で2倍以上の混雑でした。首都圏の国鉄の通勤電車は、省略されて「国電」と呼ばれていましたが、皮肉を込めて「酷電」と呼ばれることもありました。また車両の冷房化は私鉄が先行して1970年前後から始められました。JR東日本の山手線が完全冷房化されたのは1988年でした[*6-9]。


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