0406 公共住宅と民間借家の住宅供給

 戦後、不足する住宅を供給するために、1950年に住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)が設立されました。1951年には一定所得以下の世帯向けに地方公共団体が住宅を直接供給する目的で公営住宅法が制定され、1955年には住宅の不足する都市圏の勤労者に住宅を供給する目的で日本住宅公団(現・都市再生機構=UR都市機構)が設立されました。ただしこれらの施策は核家族を念頭に置いたものであり、単独世帯は、当時はまだ少数派であり対象外でした。また三世代家族は、世帯員の多い世帯は地方部に偏っており、都市部では多くありませんでした。三世代家族などの世帯員の多い世帯向けとして、公的機関が直接供給する住宅はありませんでした。

 住宅建設計画として、1952年に公営住宅建設3カ年計画、その後いくつかの建設計画が策定され、1966年からは住宅建設計画法に基づいて8期にわたる住宅建設5カ年計画が策定され、2006年からは住生活基本法に基づいて住生活基本計画が策定されるようになりました。

 公営住宅の前段階としての国庫補助による住宅は、1945年に応急簡易住宅が約4万戸建設され、1950年までに木造住宅13万戸、中層耐火構造8千戸など14万戸が建設されました。1951年「建設白書」[*4-23]には、1947年までに建設された木造住宅は粗悪だったが、その後は改善しており、1947年には鉄筋コンクリート造住宅の試作も行われたと記されています。

 公営住宅は1951年以降、ピーク時の1971年には9万戸以上が建設されました。2005年まで増え続け管理戸数が219万戸となりましたが、その後は縮小しています。1951年には「51C型」と称される鉄筋コンクリート住宅のプロトタイプが東京大学の吉武研究室から提案され、都市部を中心に徐々に普及しました。各地で大小多様な住宅団地が建設されました。

 
 図 資金別住宅着工戸数

 日本住宅公団は1955年に第1号として賃貸住宅からなる金岡団地を大阪府堺市に建設し、その後も八千代台団地(1957年、千葉県八千代市)、香里団地(1958年、大阪府枚方市)など都市圏の各地で賃貸住宅と分譲住宅の団地を建設しました。さらに地方公共団体の外郭団体である地方住宅供給公社などが住宅を供給しました。

 民間による借家経営が困難だったと述べましたが、単独世帯向けの借家は都市部を中心として建設されました。東京都など都市部で単独世帯が目立ってきたのは1960年代です。それまでは、都市に転入してきた単身者は寮や下宿に住んだり同居などが多く、それらは「準世帯」や「施設等の世帯」として扱われていたために、単独世帯として表面化することはありませんでした。東京都などでは1960年に単独世帯がほぼ1割となり、1970年に2割となりました。神奈川県や大阪府でもやや遅れて単独世帯が増加しました。

 
 図 都道府県別、一般世帯のうち単独世帯比率

 民間の借家としては木造賃貸共同住宅(木賃アパート)が建設されていきました。部屋数は1室か2室で、1室の場合には便所と炊事場は共用(設備共用)で、2室では便所・炊事場は専用ですが浴室のないものもありました。対象は都市に転入してきた単独世帯や若い夫婦が中心でした。初期の木賃アパートには設備共用が多数でしたが、次第に設備専用の木賃アパートが増えてきて、設備共用のものは少なくなっていきました。

 三宅醇氏によると[*4-24]、大阪の場合は、「この頃のアパート開発は、アパート建設に専門化した建売業者が田圃を一枚購入して、その北の端に一棟建てて、入居を待つ。満杯になったらそれを売ってその南にもう一棟建てる。それを売って…と順に転がして結局全棟を誰かに売って終わる」という、いわゆる「建売木賃」が、大阪市北部や北東部の地域などで多数を占めていました。

 一方東京では、「一戸建て持家敷地が順にアパート化して、一般住宅地で混合していた」。「東京の借家は、1923 年の『関東大震災』で一斉に郊外化し、・・・大集積地の原型となった。」同氏はこのエリアを「木賃アパートベルト地帯」と名付けています。「木賃ベルト地域の戸建て持家は、戦前には借家であって戦後に持家化されたものが多く、ずっと修理されないままで大改造が必要だった。そこに『1 階は本人(新大家)居住、2 階はアパート』:(上乗せ木賃)とか『敷地の一部にアパート棟』:(庭先木賃)が一部で始まると一斉に広がった。」

 非木造の鉄筋コンクリート造の賃貸住宅(通称・鉄賃)も一般世帯向けに建設されました。1960年代までは少数派でしたが、1970年前後から木造に代わって鉄筋コンクリート造が増えてきました。1980年代にワンルームマンションがあらわれるころには、鉄筋コンクリート造や鉄骨造など非木造の方が多くなりました。

 
 図 住宅の所有関係

 家族向け借家の建設が進まない一方で単独世帯を主なターゲットとする小規模借家が建設された理由は、1戸あたりの床面積が少なくて済むので、同じ土地面積や建設費でもより多い戸数を建設できること、床面積の大きな住戸よりも単位面積当たり家賃を高く設定できること、単独世帯は出入りが多く、敷金・礼金などの収入が多いうえに、家賃変更が容易であること、など経営上のメリットがあるからに他なりません。もちろん単独世帯の住宅需要が多かったことがすべての前提条件としてありました。

 ただしそのような借家経営であっても、修繕費などの経費は必要です。投資資金を回収し多少の利益を得ることはできましたが、老朽化した建物を建て替えたり経営拡大するまでの利益を得ることはむずかしかったとみられています[*4-25]。

 さらに単独世帯の居住者にとって、外食のできる飲食店や自炊するための食料品を容易に入手できる環境がなければ借家暮らしは不便です。一人暮らしには、食事や食料品の入手・保存・調理の条件がそろうことが必要で、さらに、専用でなくても、共用の浴室または銭湯なども必要でした。銭湯は、1950年には全国で1.6万件足らずでしたが、1960年代には2.3万件にまで増えました。しかし1970年代以降は、都市人口の郊外化や持家の増加、1980年代からはワンルームマンションの増加などによって、廃業や営業内容の変更が行われたとみられます。

 図 公衆浴場数(「普通浴場」はいわゆる「銭湯」)


前の目次項目へ        次の目次項目へ

前のテーマ項目へ  【テーマ:住宅・住宅地】   次のテーマ項目へ