0604 郊外庭付き一戸建て持家

 1950年以降の民間の分譲一戸建て住宅需要層には2種類あるとされます[*6-16]。一つは、「住宅取得金を有し・・・必ずしも低所得ではないが収入の不安定」であるために住宅金融公庫を利用できない自営業主などの世帯が主な需要者であり、価格が比較的低廉で既成市街地に近いところに立地する建売住宅です。もう一つは住宅金融公庫融資付きの民間分譲住宅でした。

 「建売住宅」と「分譲住宅」は購入者にとっては区別の必要がなく、同義に用いられることが多いのですが、もともとは、「建売住宅」は大工・工務店が住宅建設後(または建設中)に買い主を募るもので、建設工事をすることで利益を得ることに重きがありました。大正時代の大阪で大工が長屋(借家)を建てて家主に売却したことに起源があるといわれています。一方で「分譲住宅」は住宅や宅地の販売利益を目的とするものです。

 前者の事業者は小規模で、確実に売却できる立地の良い場所で少戸数ずつ建設・販売する自転車操業をしていました。一方で後者の事業者は電鉄や金融、商社など、資本力を背景として低地価の郊外に、販売まで長期を要する大規模開発を、公共公益施設整備や、時として交通設備整備などもあわせて開発していました。

 住宅ローンは、1950年に住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)が設立されて、人々が利用できるようになりました。ただし公庫融資を利用するには、収入が当初償還元利金月額の7倍以上であること、などの条件がありました。

 高度経済成長期の前半、1955年から1965年に給与水準は約2倍になりました。1960年に池田内閣が掲げた所得倍増計画は1961年からの10年間で所得を倍増するとうたいましたが、当時の経済状況からみるとむしろ控えめだったといわれています[*6-17]。人びとは所得が増えるにつれて豊かな生活はもちろん、よりよい住宅を求めるようになりました。しかし1955年から1965年にかけての10年間に、住宅地価は全国で7倍、6大都市では約10倍に上昇しました。所得が倍増しても地価上昇には追いつきません。

 
 図 地価と名目賃金

 1972年2月4日の朝日新聞[*6-18]には住友銀行(現・三井住友銀行)の調査結果として、住宅ローンを利用した平均的なサラリーマンの住宅取得状況は、年収260万円で郊外に100㎡ほどの一戸建て住宅を606万円で購入し、自己資金は300万円で銀行ローンは280万円、残りは他の資金である、と紹介しています。当時の銀行ローンの金利は10%程度で、借入限度額は年収の2.4倍とされていました。当時の小学校教員の初任給は4万3千円でした。価格550万円の住宅を購入できる世帯は全国で10%程度にとどまるとも試算されています。

 銀行ローンで、100万円を金利10%、償還期間10年で借り入れると、毎年約16万円、毎月1万3千円を返済することになります。一方で住宅金融公庫の金利は5.5%、償還期間は18年から35年程度でしたので、公庫融資はきわめて有利でした。公庫を利用して100万円を5.5%、仮に10年で借り入れると、毎年約13万円、毎月1万1千円が償還金となり、償還期間35年では年6.4万円、月5千円強となります。公庫融資は人気でした。ただ既述のように、一定以上の安定した収入のない世帯が公庫融資を受けることは難しかったのです。

 国は持家取得促進のため、持家取得などを目的に財形貯蓄をする世帯に融資優遇をしました[*6-19]。企業によっては総合住宅対策として、財形貯蓄を奨励し、社内預金の金利優遇や持家融資をするところもありました[*6-20]。これらの施策、対策によって持家取得が促されました。

 持家をローンで取得すると経済的、資産的に有利となるという事情もありました。仮に300万円を銀行から上記の条件で借り入れて500万円の住宅を購入すると、年間約48万円を返済することになります。ところが、1960年代半ばから1970年代にかけて賃金は上昇し続け、年によっては20%前後も上昇することもありました。所得が200万円の世帯にとって48万円の返済は確かに厳しいのですが、5年も経てば所得は倍増し負担は軽減されました。たいていの世帯は無理をしてでも持家を手に入れようとしました。

 さらに持家取得予定者にとって地価の上昇は脅威であるとともに大きな魅力でもありました。6大都市住宅地の地価上昇率は1960年代後半から70年代にかけては年間10%前後でした。購入金額のうち300万円が土地価格だとして、10年もすれば800万円近くの価格となります。当時の定期預金金利は5.5%でしたから、資産運用方法としてはきわめて有利でした。

 地価が下落することはないという土地神話と、所得は上がり続けるという高度経済成長期の楽観的気分のなかに持家志向がありました。実際に、地価が下がったのは1990年代、所得が下がったのは2000年代です。上田篤氏が発表した「住宅双六」では、家族から独立後、最初は寮・寄宿舎や下宿、間借りに居住し、借家や建売住宅、分譲マンションなどを経て、「庭つき郊外一戸建住宅」が「上り(アガリ)」とされています[*6-21]。

 地価高騰のために住宅地は郊外に広がり、低廉な住宅地を求めて通勤時間2時間を要する地域にまで住宅地が広がっていきました。ただし、そのような地域では公共公益施設がもともと整備されていないことがありましたし、なかには衛生上や雨水の排水、バス、鉄道などに問題のある住宅地もありました。


前の目次項目へ        次の目次項目へ

前のテーマ項目へ  【テーマ:住宅・住宅地】   次のテーマ項目へ