0906 不動産価格の上昇

 バブル経済期における不動産バブルは生活に直接の影響を与えました。6大都市圏の住宅地地価年間上昇率は、1986年には9.7%、1987年26.9%、1988年23.3%、1989年に15.2%で、1990年には33.2%の上昇を記録しました。また全国の住宅地地価もそれまでを上回って上昇しました。各地で住宅地開発やリゾート開発が進められ、豪華で高価な分譲住宅や別荘が建設されました。

 また都心・市街地では、オフィス需要の増加を見込み、1985年ごろから土地需要が高まりました。土地を取得して高値で転売し、商業施設やオフィスにしようとする投資家や業者が多くなりました。都心・市街地の土地を売却するには、所有者や居住者・使用者に補償金を支払って退去してもらうのが一般的です。しかし適当な転居先がない、補償条件が十分でないなどの場合には退去を拒まれることがあります。そこで、さまざまの手練手管で退去するように仕向け、あるいは強要する「地上げ屋」が暗躍しました。立ち退きを拒む住人を、脅迫したり、家屋をダンプカーで壊すなどの嫌がらせを行う事件が東京などで発生しました。

 首都圏の分譲マンション平均価格は、1986年までは3千万円程度でしたが、1990年ごろには6千万円から7千万円になりました。近畿圏でも1980年代前半は2千万円台でしたが、5千万円から6千万円台に、全国平均でも2千万円前半から4千万円程度に急騰しました[*9-9]。1990年9月20日の朝日新聞[*9-10]によれば、足立区の北千住駅近くの工場跡地に建てられたマンションの最高額の部屋は約110㎡、4SLDKで約4億2千万円、平均でも1億円前後でした。

   
 図 新規分譲マンションの平均床面積と平均価格(首都圏)  図 新規分譲マンションの平均床面積と
   平均価格(近畿圏)

 価格が1億円を超える分譲マンションは「億ション」と呼ばれました。1986年までは首都圏でも年間200戸程度でしたが、1987年に497戸、1988年1,169戸、1989年には1,802戸に増加しました。また立地も、当初は都心などでしたが、1988年には東京の下町や川崎市、横浜市でも販売されるようになりました[*9-11]。近畿圏でも、1987年131戸、1988年284戸、1989年800戸と推移しました。立地は神戸市と阪神間、京都市が主で、次いで大阪市であり、1989年に大阪市など各地で目立つようになりました[*9-12]。

 ほとんどの人は過去の経験と、この時期の高揚感から、将来的に土地価格は下落せず所得も上昇するという先入観をもっていました。融資も潤沢だったために、価格が手頃な物件だけでなく、高価な物件をも先を争って購入しました。1987年の最も高い平均競争倍率はアベニュー音羽の1208.6倍であり、マンション人気は異常なまでに高まりました。ただ物件の一部は、居住用としてだけでなく投資用として購入されることもありました[*9-13]。

 しかし住宅価格が高騰するにつれて取得できる人は限られてきました。既述の通り、日本では良質の借家はあまり供給されず、人びとは持家取得をすることによって住宅水準を向上させてきました。ところが、それまでは持家取得をしていた中間所得層にとって、持家に手が届かず、住宅水準向上を実現できなくなってきました。

 「CRI」[*9-14]によると、首都圏の分譲マンションの購入者は、1985年ごろまでは世帯主年齢が30歳前後までの比較的若い世帯が多く、年収も500万円未満で前住宅は持家以外である世帯が多かったとみられます。ところが1989年になると40歳前後以上で年収が600万円以上、前住宅が持家という世帯が多くなりました。若くて持家を初めて取得する世帯を一次取得世帯と呼びますが、一次取得が困難となり、高所得で持家などの資産を保有する世帯しか分譲マンションを購入できなくなってきました。近畿圏でも、首都圏ほどではないものの状況は同様でした。

 国は中間所得層の住宅水準向上のため、1993年に、借家経営者に対する助成措置や家賃逓減措置を行う特定優良賃貸住宅制度を創設して、良質な民間賃貸住宅の供給促進をすることとしました。さらに、従来の借地法・借家法が、借主の権利を無期限に過度に保護しているために、経営者の意欲を削いでいるとの主張に基づいて、1991年に借地借家法の改正が行われ、賃貸期間を限定できる定期借地権、定期借家権が設けられました。借地・借家は、地価を直接に顕在化しないために、高地価に有効に対処できると期待されました。


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