0304 農地改革と農業の行き詰まり

 戦時1940年の農業就業者は男性637万人、女性718万人で、いずれも1930年を下回っていました。また水稲の作付面積は、戦前には約300万haでしたが、戦時中には280万haにまで縮小しました。しかし1950年には、農業就業者が、男性792万人、女性844万人と増加しました。水稲作付面積も1955年に戦前の面積に復帰し、生産量も戦前を上回る1,207万トンに達しました。終戦直後の食糧事情は深刻で、主食である米穀増産が求められました。

 
 図 米の生産量と作付面積

 農村にあった地主制度を打破するための農地改革が1947年に実施されました。1haを超えるなどの条件にある小作地を、小作人が安価に買い取ることができるようになりました。川越俊彦氏によると[*3-5]、これにより1947年に小作と小自作合わせて250万戸でしたが、1950年には67万戸になり、代わって自作と自小作が、1947年に合わせて323万戸でしたが、1950年には522万戸となりました。

 同氏によると、1938年時点で経営規模が0.5ha未満の割合が、小作は52%、自作も42%と零細でした。比較的規模が大きいのは自小作で、それでも20%は0.5ha未満であり、全体としても1/3が0.5ha未満でした。5ha以上の経営規模の農家は1%にも満たず、2ha以上としても7%程度でした。このような状態では農地改革で小作が自作となっても、収入を農業だけに依存することは難しかったと想像されます。兼業農家が増え、一部の農家は離農を余儀なくされました。

 米穀の生産量は徐々に増えてきましたが十分ではなく、増産方針は継続されました。耕地面積を拡大するため1957年には八郎潟の干拓が着工され、1967年から入植が始まりました。

 ところが1967年に米の自給率が100%を超えて、米余りがあらわになってきます。政府は農家から米を買い取って国民に配給しており、農家にとっては米の安定的生産・増産が生活の安定にもつながっていました。しかし買取り価格が売却価格を上回る状態だったために政府の負担となっていました。米の生産を抑制するために1970年、政府は米の生産調整、減反政策に踏み切りました。これによって大半の農家の米作、営農意欲がそがれたと想像されます。しかし一部の農家は、高品質の米生産や米以外の農業への転換などを模索しました。

 農家の生活について、1954年「経済白書」[*3-6]には、「都市、農村の消費水準は生活様式の上で農村の方が文化的な面に劣っており、内容に著しい差異があるものの平均ではほとんど同一レベルにあり、前年には農村の消費水準が都市を若干上回っていたのに比べると28年は農村が相対的に悪くなった」とあります。ところが、1962年「厚生白書」[*3-7]では、「昭和36年の年間消費支出においては・・・農家は都市世帯の93.4%であるが、農家の世帯人員5.62人に対し都市世帯は4.35人と異なっており、世帯人員数を調整した場合には、その格差は80.3と開いてくる。さらに、この消費支出の内訳をみると、消費水準の差以上に消費構造の違いが著しい。」と指摘されています。

 北海道では入植によって農業就業者が増え、耕地面積も拡大しました。一方で、それ以外の地域では農家経営を維持することは次第に難しくなってきましました。戦前、農家では長男が跡取りとなり、それ以外は離農や他家の養子、女性の場合は嫁ぐまたは婿養子を迎えるという形で、農業就業者数が維持されてきました。戦前に550万戸程度で推移していた農家数は、1950年に600万戸を超えましたがその後は減少し続け、1990年には半減しました。また戦前は専業農家が7割を占めていましたが、1940年代以降は兼業農家、なかでも農業以外の職業が主である第2種兼業農家が半数以上の多数を占めるようになりました。

 
 図 農家数の推移


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