0805 住宅の新展開

 建売住宅の一種として1975年ごろから「ミニ開発」があらわれました。それより前1964年に、造成地の崖崩れなどの災害防止と、道路や公園、排水設備などの環境整備のために、住宅地造成事業法(現・宅地造成規制法)が、1970年に開発許可制度が施行されました。さらに宅地開発による地価上昇を抑制するために1974年に制定された国土利用計画法によって土地取引が許可や届け出を要することになりました。それらの制度では一定規模以上の開発が対象となりました。ミニ開発は、開発単位を小さくすることでそのような規制を受けないことを狙っていました。

 ミニ開発は、開発に要するコストが少なく期間が短いことから、開発者にとっては、不動産不況のなか短期間で利益を得ることができ、リスクが小さいというメリットがありました。さらに購入者にとっては比較的安価に住宅を取得できるというメリットがありました。この言葉は日経産業新聞上で1975年に最初に用いられたとされますが[*8-10]、その後は開発規模千㎡未満で、1戸あたり敷地面積が百㎡未満の建売住宅開発を指すようになってきました。地価の上昇と都市部での人口増加がミニ開発を生んだともいえ、ミニ開発は都市部を中心として全国に広がりました。

 分譲マンションの変形として、集合住宅を注文住宅として建設する方式として日本版のコーポラティブハウスが生まれました。コーポラティブハウスは日本語では「協同建設住宅」と訳され、複数の入居者自身が、協同の事業主として集合住宅の土地取得から設計、建設までを行うものです。住宅自体は分譲マンションと類似していますが、分譲マンションの場合は既存の住戸を選択するために、建物・住戸に対する自身の希望を反映することができませんし、隣人との関係も入居後に築くことになります。コーポラティブハウスは事業開始時から入居者同士が自分の希望・要求を出して調整、決定することが必須で、そのために手間がかかり、信頼関係を築くことが難しい場合もありますが、反面で、入居者同士の交流と相互理解が深まるとされ、間取りなどの希望をそれなりに反映できます。

 コーポラティブハウスは1974年から首都圏や大阪圏で実施されました。大阪都心では空洞化が進む都心に住むことを主旨として「都住創」が設立され、1975年から2002年の間に22棟が建てられました。住宅に対するこだわりや要求の多様化、希薄化する地域コミュニティへの希求がコーポラティブ住宅に反映されているともいえます。

 借家でも新しい方式が生まれました。その一つはワンルームマンションです。ワンルームマンションは、同じく単身者向け住宅で1960年代を中心に多数建設された木賃アパートと違い、専用の風呂・便所や小さなキッチンをもっており、非木造のものが多数におよびます。ワンルームマンションと言えば賃貸住宅を思い浮かべますが、それよりも前にはワンルームの分譲マンションが1971年ごろに都心にあらわれ、セカンドハウスや小オフィスとして使われました[*8-11]。

 単身者向け賃貸住宅としてワンルームマンションがあらわれたのは、株式会社マルコーが1976年から分譲した「リースマンション」です。リースマンションは全国の投資家に分譲され、投資家は毎月の家賃を受け取る仕組みになっていました。1979年12月21日の朝日新聞全面広告[*8-12]には、「マルコーは入居者から数多くの希望や建設的な意見を聞いてきました。その意見の集約が、ファッショナブルな洋室のバス付きワンルームであり、もっともニーズの多いタイプであることがわかったのです。また、このワンルームタイプは、オーナーにとっても収益性が高く有利であることもわかりました」とあります。

 リースマンションには多数の企業が参入しましたが1980年代には倒産する企業もでてきました。マルコー自身も1991年に倒産しました。しかしワンルームマンションの形態は、資産運用方法のリースマンションとしてではなく、一般家主が建設する単身者向け住宅としても普及していきました。

 高度経済成長期までは、親元を離れた学生や独身社会人の住まいは下宿、間借りや寮・寄宿舎が主流で、単身者用の住まいとしては木賃アパートぐらいしかありませんでした。食事は、賄い付きでなければ外食、風呂は銭湯に行き、便所は共同です。自分の住戸内だけで生活することは難しかったと言えます。ワンルームマンションが登場すると、自室を出ずに大半の生活ができるようになります。コンビニエンスストアが増えると生活はさらに便利になりました。

 1990年の調査では、男子学生の8割以上、女子学生の9割以上は風呂・トイレ付きのワンルームマンションなどに住んでいました[*8-13]。若年単身者にとってワンルームマンションは当たり前の住まいとなりました。

 住宅建設技術の重要な発展は住宅の工業化です。終戦後から1970年代にかけて住宅が大量に建設されましたが、粗悪な住宅もありました。品質のよい住宅を低廉に大量に建設するために民間企業による住宅の工業化が試みられました。住宅用のプレハブ住宅として大和ハウス工業が1959年にミゼットハウスを発売し、その後いくつもの企業がプレハブ住宅を発売しました。

 さらに品質管理を向上させるために、1973年に建設省(現・国土交通省)が工業化住宅性能認定制度を導入するなど、木造軸組の在来工法とは異質の性能と品質で、独自の発達をしました。プレハブ住宅とツーバイフォー住宅の1973年の新設戸数は約14万戸で、住宅着工戸数の約7%を占めました。その後1980年代には20万戸を超え、住宅着工戸数の30%前後となるなど確固とした地位を占めるに至りました。

 図 新設プレハブ住宅戸数

 共同住宅でも工業化が模索されました。建設省は1972年に、良質で適正価格の高層住宅の開発と高層住宅団地の良好な住環境整備、住宅生産の工業化を目標として、兵庫県芦屋市の埋立地を建設地とする、「工業化工法による芦屋浜高層住宅プロジェクト提案競技」を実施しました。22の企業グループが提案を行い、新日本製鐵・竹中工務店・松下電工・松下興産・高砂熱学工業の企業連合ASTMの案が採用されて、1979年に、最高で29階建ての超高層住宅を含む住宅団地が完成しました[*8-14]。この設計競技には住宅産業に初参入の企業も含めて多数の企業が参加しました。開発された技術やノウハウは、その後の建設活動に生かされることとなりました。

 住宅の工業化は建築部材、建築材料の工業化をも含んでいます。かつて、例えば建具やさまざまの建築部材は職人や大工がつくって現場で仕上げ、壁は左官が仕上げるなどしていましたが、多様な部材、材料が工業製品として商品化され、プレハブ住宅以外でも、現場でそれを組み立てる方法が普及してきました。また浴室や台所も、バスユニットやシステムキッチンとして各社から販売されるようになりました。ただ、便利になった反面、加工や組み立ての伝統的技術、技能の継承がむずかしくなりました。


前の目次項目へ        次の目次項目へ

前のテーマ項目へ  【テーマ:住宅・住宅地】   次のテーマ項目へ