0507 小売・流通業の新業態

 高度経済成長期の物価指数の安定には流通業の変化も影響したと推定されます。1957年、大阪市千林に「主婦の店ダイエー薬局」が開店し、薬品、化粧品、加えて雑貨や菓子、食品などの安売りを展開しました[*5-29]。

 日本のスーパーマーケットは、セルフサービス方式の店舗としては1953年に東京・青山に開店した紀ノ国屋が、セルフサービス方式の本格的な店舗としては1956年に北九州市小倉に開店した丸和フードセンターが最初であると言われています[*5-30]。値付けをされた商品を大量に店頭に置き、客がセルフサービスで選ぶスーパーマーケットは1960年には全国に400店ほどありました[*5-31]。

 ダイエーの創業者である中内功によれば「安い品物をお客に提供できるのは・・・大量生産される商品を大量に仕入れ、大量に売る。これによってコストを切り下げること」[*5-32]ができる、つまり薄利多売に基本があります。しかしこのころには、生産者から消費者までの中間コストを省くために生産者から直接仕入れて販売する方式もあらわれてきました[*5-33]。

 また核店舗と専門店とで構成されるショッピングセンターがつくられるようになりました。1968年のイズミヤ百舌鳥ショッピングセンター(大阪府堺市)、香里ショッパーズプラザ(大阪府寝屋川市)がその先駆けと言われます。1969年には本格的な郊外型ショッピングセンターとされる玉川高島屋ショッピングセンター(東京都世田谷区)がオープンし、その後も各地にショッピングセンターがオープンしました[*5-34]。

 スーパーマーケットの店舗数(商業販売統計年報)は1972年に808店となり、順調に増えて1984年には1,913店となりました。高度経済成長期後の安定期に停滞しましたが1990年代半ばから再び増加し、2005年に3,940店となりました。同じ大規模小売店舗である百貨店は、1972年に291店舗、1994年に最多の428店となりましたが、2005年には345店に減少しました。

 もともと百貨店は高級品、スーパーマーケットは日用品、食料品、衣料品に重心をおいていました。百貨店の営業スタイルは大きくは変わりませんでしたが、スーパーマーケットは、1980年ごろにはグループ化や提携が進み[*5-35]、さらに、安売りを追求するだけでなく、幅広い品揃えをしたり特色ある商品を並べたり、さらには複合施設化というように多様化していくことになりました。

 
 図 百貨店・スーパーマーケット・コンビニエンスストアの年間販売額

 一方商店街は、門前町や市場、駅前などの交通の要衝、住宅地などの店舗群などから発達してきたり、露天商などから発展してきました。商店街は主婦にとって身近で気安い反面、品物や値段を店主と会話しながら購入する煩わしさも感じていたようです[*5-36]。スーパーマーケットは、百貨店よりも商店街の小売店と競合するため、多くの地域では進出への反対がありました。1973年に百貨店やスーパーマーケットの立地に制限を加える大規模小売店舗法が制定されました(2000年に廃止)が、商店街をとりまく環境は好転しませんでした。

 商店街の小売店のほとんどは個人経営です。個人経営の小売業の販売額は、1958年に1.8兆円、法人は1.7兆円でした。1974年に法人は27.8兆円になりましたが個人は12.5兆円にとどまり、その後も個人は停滞して1991年に24兆円に達してからは減少しています(商業統計調査)。法人は同じ年に100兆円を突破しました。従業員数も、個人は1982年に309万人となっていますがその後は減少し、法人はそのころから個人の従業員数を上回るようになりました。

 
 図 小売業の経営組織別年間販売額と従業員数

 個人小売店には、子供が必ずしも後を継がないという課題もあります。新雅史氏は[*5-37]、近代の零細小売店の多くは第1次大戦後の不況期に離農して都市に流入してきた家族によって、家族ぐるみで担われていたとしています。ところが第2次大戦後の社会は、企業と男性の雇用、専業主婦を社会保障制度などを基本とするようになり、個人小売業者の「前近代的家族」的な家族形態はそれにそぐわなくなったと指摘しています。個人小売業者の社会的位置づけが十分ではない中で、子供の継承は難しいと述べています。また小売業などの自営業の経営条件も厳しくなりました。自営業者は減少し、自営業者の子供であっても企業に就職する傾向が強くなっていきました。


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