0407 市街地での住宅供給

 1970年代までは、都心、市街地にはまとまった土地が少なく、住宅供給は工場などの施設跡地で散発的に行われるに過ぎませんでした。

 市街地で建設されるのは主に共同住宅でした。1956年に建設された日本住宅公団(現・都市再生機構=UR都市機構)の晴海団地ではステンレス流し台が初めて導入されました。それまでの流し台は人造大理石やコンクリート製で、傷みやすく使い勝手はよくありませんでした。公団住宅には、当時は珍しかった浴室と水洗便所も備えられ、玄関の鍵をかけるだけで戸締まりができるなど便利でした。公団の賃貸住宅は1956年から1964年に17万戸、1965年から1974年に32万戸が建設されました。住宅事情が悪い当時、最先端の居住スタイルで、居住者は「団地族」と呼ばれるなど庶民の羨望の的でした。このような住宅設備は公団住宅以外にも、共同住宅を中心として普及していきました。

 分譲マンションは1956年ごろから東京都心や大阪などでも便利な場所に少戸数ずつ建てられましたが、入居者は高所得者でした[*4-26]。市街地に建てられた大規模な高層住宅としては1958年に日本住宅公団が建てた、大阪西区にある11階建ての西長堀アパートと、東京都中央区にあった10階建ての晴海アパートがあります。いずれも高家賃で高額所得者が入居していました。このころの都心住宅は庶民には縁遠いものでした。

 そのほかの高層住宅も市街地で建設されました。1964年に都営小島町住宅が完成し、1968年ごろからは渋谷区などにも高層マンションが建設されました。しかし人口は、都心では減少し、その周辺でも減少していきました。1960年から1965年にかけて東京都都心3区はもちろん、台東区、墨田区、などで人口が減少し、1995年にかけて、練馬区・江戸川区以外の区部全体に減少が及びました。

   
 図 東京都区部と周辺の人口増減(1950-1970年)  図 東京都区部と周辺の人口増減(1970-1990年)

 大阪市でも1960年から65年に、中央区・北区・福島区・東成区などの都心とその隣接区で人口が減少し、2000年ごろまでには大半の区で減少を経験することになりました。

 1990年代にかけて、東京都区部や大阪市など大都市の都心と隣接地域から人口が流出し、都心空洞化あるいはドーナツ化と呼ばれる現象が起きました。人口減少とともに、都心にあった地元住民相手の商店が少なくなり、内風呂の普及もあって銭湯も少なくなっていきました。また小中学校は児童・生徒数の減少で1990年代を中心に、1980年代から東京都や京都市、神戸市、大阪市などの都心区で統廃合が実施されました。都市市街地での居住利便性が低下しました。もちろん地域の全世帯が流出したわけではなく、住み続ける世帯もありましたが、地域コミュニティは失われていきました。


前の目次項目へ        次の目次項目へ

前のテーマ項目へ  【テーマ:住宅・住宅地】   次のテーマ項目へ