1302 都心マンションの建設

 2000年ごろから、都心に超高層マンションが建設されるようになった理由はいくつか考えられます。一つは地価がバブル経済期直前の水準にまで低落したことです。加えて、都心の居住機能を増強するために1997年に高層住宅誘導地区が導入され高層住宅の容積率が緩和されたことで、コストや売却価格に占める地価の割合がいっそう小さくなりました。また企業が保有していた遊休土地の有効活用が必要であったところに、2000年に会計制度の全面的な改革(会計ビッグバン)が行われて、不動産資産の含み損処理が喫緊の課題となり、企業が保有していた社宅・寮や倉庫などの跡地、低利用地などが放出されました。バブル経済期以前であればそれらの土地には収益性の高いオフィスや商業施設が建設されていたでしょうが、事業リスクの低い分譲マンションや賃貸マンションが建設されました。

 住宅ローンの都市銀行金利は、バブル経済期までは6~8%台で推移していましたが、1990年代後半になると2%台になりました。これによって分譲マンション購入が容易となりました。

 1990年代後半以降2002年までに供給された分譲マンションは、価格は上昇しないままに平均床面積が拡大していきました。2000年12月1日の週刊朝日[*13-1]は、「平均価格、坪単価とも、都内のほかの地域と比べると、都心部の低下が一目瞭然だ。97年以降、5千万円台までの比較的買いやすい物件が増えている」と記しています。入居者について2001年5月20日の日本経済新聞[*13-2]は、ある物件の「購入者の大半はOLを含めた働き盛りの独身者やDINKS、熟年夫婦など」としています。一方で、「週間住宅情報」の調査では「新築マンション購入者のうち、千代田区で33%強、中央区でも27%弱が学齢期の子連れ家族」だったといいます[*13-3]。2005年「首都圏白書」[*13-4]によると、超高層マンションの家族構成は夫婦や子供のいる家族が70%を占め、世帯主年齢は30歳代、40歳代が半分で、60歳以上が18%でした。

 大阪の都心マンションについても、郊外に住んでいた高齢者が生活利便性や医療環境を求めて都心居住を選択しているとの見方もありましたが、それとともに比較的若い共働き世帯や単身者など幅広い世帯が、通勤や生活の便利さ、文化的環境を求めて入居しました。

 さらに東京周辺では、都心以外にも、交通利便性の高い、例えば武蔵小杉や二子玉川などにも超高層マンションが建設され人気となりました。またマンションだけでなく、ミニ戸建てと呼ばれる狭小敷地の一戸建て住宅も市街地に新築されるようになりました。

 都心の生活施設は、1980年代からの都心空洞化によって少なくなりました。しかし都心や交通至便地に高層マンションが建設され、子供数が急増したために、小学校の教室数や保育園が不足してきました。高度経済成長期の郊外開発の際には、人口増加によって、地域の活性化や住民税の増収などを期待できる反面、公共公益施設整備の負担が過重なため開発を渋る自治体がありました。2000年代になって、かつて人口増加した郊外で空洞化が進み、かつて空洞化した都心や市街地で人口が増加するという逆の事態が生じ、都心などの自治体はかつての郊外自治体と似た状況になりました。

 2002年5月14日の毎日新聞[*13-5]は、区内のマンション開発に対する江東区の対応を報道しています。「区は東雲地区に小学校を新設しない方針だ。・・・それぞれの家庭の子どもが学齢を過ぎると、もう子どもの増加を見込めない。学校は『使い捨て』にされかねない。
 同区内には先例がある。区北部、亀戸3の亀島小が今年3月、わずか21年の歴史に幕を下ろした。81年の開校当時、公団団地への転入で第一亀戸小の児童数が急増。区は地域の2校を3校に分割・再編し、亀島小を新設したが、その後の児童減少で、第一亀戸小と再統合されたのだ。十分使える校舎と校庭の利用方法は、未定だ。」

 都心マンションは1990年代後半から2003年前後にかけて活発に供給されました。しかし東京圏などで2005年ごろから地価が回復し始めるとともにマンション価格も上昇し始めました。さらに2008年のリーマンショックを経て、2010年ごろになると需要圧力が弱まってきました。


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