12.雇用環境の変化

1201 非正規雇用の制度化

 1960年代までにも、企業はもちろん官庁でも臨時雇用やパートなどの非正規雇用も行われていましたが、年功序列型の終身雇用の正規雇用を基本としており、非正規雇用は正規雇用を補う位置づけでした。1970年代から1980年代に雇用形態に変化が生じてきました。

 1971年以降の円高、1973年の第1次オイルショックと高度経済成長の終息、1985年のプラザ合意などによって企業活動は厳しさを増し、企業は経営の合理化、減量経営を進めました。世界貿易機関(WTO)統計によると、1980年代までの日本の工業製品の輸出額シェアはアメリカ、ドイツと競って10%台前半でした。ところが1990年代後半から下降し始め、代わって中国などのシェアが伸びてきました。

 図 工業製品の輸出額シェア

 日本の平均賃金はバブル経済期の1980年代後半から断続的にアメリカを上回るようになりました。バブル経済期が収束しても賃金は高止まりし、企業にとって人件費が負担となったと推測されます。ILO統計によると1995年の日本の平均賃金は3,097ドルでしたが、同年の中国の平均賃金は55ドルでした。ちなみにアメリカの平均賃金は1,707ドルでした。中国の平均賃金はその後上昇し、2015年には830ドルに達しました。同年日本の1/3以下ではありますが、中国のなかでも上位の賃金は、部分的には日本の賃金に迫り、上回っているとみられます。

 中国の工業製品の輸出は、1980年代までは繊維製品などの比率が高かったのですが、技術水準の向上とともに、次第に機械器具や電子製品の比率が拡大してきました。1990年以降、中国の経済成長は著しく、GDPは、2000年に英国を、2005年にドイツを、2010年には日本を凌駕しました。また韓国やインドやブラジルなどの経済成長も著しいものがありました。輸出産業では国際競争力の強化が求められるようになりました。日本の多くの企業が競争力を高めるために低廉な労働力を求め、中国などの国外に生産拠点を設けたり、生産委託をしたことも中国などの輸出が増えた理由です。

 人件費や経費・手間を抑えて合理化しようとする意向はどの経営体にもあります。必要な人材を必要な期間のみ雇用できれば経営の合理化につながります。労働条件が厳しい正規雇用よりも流動性の高い雇用形態への要求が浮上してきました。そのような人材を供給する労働者派遣業として、1966年にマンパワー・ジャパンが、1973年にテンプスタッフが、その後もマンパワーセンター(現・パソナ)などが設立されて成長してきました。

 当時、労働者派遣は公式に認められてはおらず、黙認されているに過ぎませんでしたが、「子育てを終えた主婦や組織に拘束されたくない未婚女子に人気が」ありました[*12-1]。また成長の背景として、「企業からの要請の他に、『一つの会社につとめて、いろいろな仕事をやらされるより、会社を変わっても好きな仕事をした方がいい』というように、若い人を中心に、企業よりも職業を重視する人が多くなっていること」がある、との見方もありました[*12-2]。

 労働者派遣業を公認することについては、労働条件があいまいとなる可能性や、適正な給与が支給されるかといった懸念が労働団体などから指摘されましたが、1986年に労働者派遣法が施行されたことで公認されることになりました。この段階では、ソフトウエア開発や通訳、秘書、建築物清掃など13の業務に限って派遣が認められていました。しかし労働市場の規制緩和の要請で、1996年には26業務に拡大され、1999年には一部の業務を除いて原則自由化されました。

 1956年から実施されている「就業構造基本調査」は、「雇用者」について、「会社など役員」「一般常雇」「臨時雇」「日雇」の区分で集計していましたが、これに加えて、1982年調査から「雇用形態」の再集計を始めています。分類は、「正規の職員・従業員」「パート」「アルバイト」「労働者派遣事業所」「契約社員」「嘱託」「その他」です。1970年代から、業務内容や雇用関係、労働時間の多様化にともなって雇用形態が多様になってきたことを反映しています。雇用形態の多様化は、経営合理化のために業務内容がより厳しく見直された結果だともいえます。


前の目次項目へ        次の目次項目へ

前のテーマ項目へ  【テーマ:経済と就業環境】   次のテーマ項目へ