0404 労働時間の短縮

 労働時間は、1950年代は長時間でした。1947年に労働基準法が制定され、通常の労働時間を1日8時間、1週48時間とし、時間外や深夜、休日労働は賃金割増とすることに定められました。が、1950年代には経済成長とともに労働時間は増加し続けました。第2次、第3次産業では月180時間から200時間に達し、製造業などでは190時間以上で、1950年代末には210時間に迫っていました[*4-8]。

 ところが1960年代になると労働時間が短くなってきました。その原因として1962年「労働経済の分析」[*4-9]は、「1) これまでの盛んな設備投資によって生産能力が著しく増大していること、2) 求人難の状態が続くことが予想されるため景気回復後への考慮からも人員削減を行なわず、時間外労働の削減等によって生産調整に対応しようとする傾向がみられたこと、3) 求人難を背景とする労務管理改善の一環としての休暇、休日の増加、残業の規制などの傾向が中小規模の事業所を中心として現われて来たこと」をあげています。製造業では工場の機械化、オートメーション化などの技術革新が進められ、さらに電子機器やロボットなどが導入されていきました。

 
 図 労働時間

 1963年「労働経済の分析」[*4-10]では、「いずれの産業でも週48時間制が適用されている労働者の割合が減っており、全般的に週42時間から45時間制の比率が大きくなっている。とくに中小企業の多いゴム製品、金属製品などはこの傾向が著しく、従来大きな割合を占めていた週48時間の適用労働者が最近大幅に減少している。また、鉄鋼、石油石炭製品など大企業性産業では42時間ないしそれ未満の割合の増加が目立っている」と述べ、1964年には「最近週休日の増加という形がかなり目立ってきているが、労働基準局が行なった調査によると、(昭和)39年中に週休2日制を実施した企業は150件で、38年までの72件を大幅に上回っている」と記しています。ただし週休2日制の企業のうち完全週休2日制を採用するところは25%にとどまっていました。

 しかし労働時間短縮が進む一方で、一部の業種や部署では長時間労働が行われており、猛烈に働くことに生きがいを見いだす「モーレツ社員」が1960年代に話題となり、もてはやされもしました。1970年代になると過労やストレスなどの弊害が指摘されるようになり、とりわけ新入社員には受け入れられなくなっていきました。

 その後、1987年の労働基準法改正によって法定労働時間が週40時間に短縮され、1992年には国家公務員で完全週休2日制、公立の小中学校でも部分的な週休2日制が導入され、徐々に週休2日制が定着していきました。

 労働時間短縮に対する企業の意図について1971年「労働経済の分析」[*4-11]は、「労働時間短縮によるモラールの向上、生産効率の増大などの効果が企業からも期待されるようになった。技術進歩に伴う生産性上昇が実現される一方、労働態様変化などによって単調労働、監視労働を含む精神的疲労度の高い作業が増加する側面があり、企業が労働時間の短縮、休日休暇の増加によって作業能率の向上や従業員士気の高揚をはかる必要が高まっている」と指摘しています。

 一方で、労働環境のこのような変化によって就業者の意識に変化が生じたのも当然でしょう。同じ「労働経済の分析」[*4-12]では、「勤労者の生活態度は、これまでは、仕事中心型ないし勤勉型というべきものが多数を占めていたが、最近では仕事を重視する一方で家庭や趣味、レジャーを生活の主な目標とする者が増加して」おり、「仕事が社会への参加、生活そのものであると同時に、それによって全生活を支えるという基礎的な段階から、仕事以外の生活にも関心をもつという余裕ある段階に移行してきている」と分析しています。

 このように労働時間は制度的にも短縮され、実態としても短くなっていきました。とは言っても長時間勤務や残業、サービス残業が完全になくなったわけではなく、新聞記事には一般企業だけでなく公務員や医療、教育の分野での過労死が1970年代から報告されています。遅くとも1980年代半ばには、会社のためにがむしゃらに働くサラリーマンを指す「企業戦士」という言葉があらわれ、1988年に発売された栄養ドリンクの「24時間戦えますか」というコピーが流行語となりました。また、完全失業率は1960年代以降2000年代まで徐々に高くなっていきました。


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