0305 農村の崩壊

 竹内芳太郎氏は[*3-8]1960年ごろの農家について、「専業の多いのは1ha以上であり、50aから1haの層になると、もはや専業がくずれて第1種兼業に流れ込む。それが50a未満になると、急速に第2種兼業」となると記し、さらに農業人口の減少について、「人口減少の要因をなすものは・・・青年、とくにそれが次三男の場合が多いのだが、最近はいわゆる跡とりであるものの流出も見られるし、著るしい特色としては、男子よりも女性に多いということである。・・・幼年と老年、中年の女性の三者が有力な構成メンバーとなってきた。」「流出先は他産業であるが・・・遠隔の土地への転出を意味しない。・・・工場や事業所の建設地が地方まで進出した結果、自宅から通勤可能な農家が多くなったからである。・・・むしろ青年は遠隔の地に、そして中年者は近い町にという場合が多い。しかもそれはいわば臨時工的就職であるから、不安定であるため、完全離農はしていないので、表面的には農家人口の一員である」と記しています。

 
 図 農業就業者数

 高度経済成長期を通して、農家の離農、兼業、出稼ぎ志向はきわめて強く、高齢者や主婦だけが農作業に携わる「三ちゃん農業」(じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃんの三ちゃん)や「かあちゃん農業」が問題となりました。その結果、農家の跡継ぎ問題、嫁不足、出稼ぎの留守家族の問題などが生じました[*3-9]。

 農家の出稼ぎは1960年ごろから増え、東京オリンピックの関連工事のあった1960年代には30万人前後で、1972年の54.9万人をピークに減少しました[*3-10]。出稼ぎ者は東北出身者が多く、北海道、北陸地方、九州地方などの出身者もいました。都市部の建設現場などの人手不足を出稼ぎ労働者が補っていました。一方で工場などが立地する地域では、農家が農地を手放して工場に勤めるなどの動きもあり、農家数、とりわけ専業農家数はさらに減少しました[*3-11]。

 営農条件の悪い農家や僻地では、農業に見切りをつけ、土地を放棄して都市などに生活の場を移す世帯が増えてきました。そのなかでも、近くに第1次以外の産業がなく兼業が難しい集落では、若い働き手が他所に転出し、過疎地となっていきました。過疎集落では、医療・保健のサービス低下、消防力の弱体化、道路や河川改修の停滞、小学校の縮小・廃止、公共交通機関の減便など、生活に直結するさまざまの問題が生まれました。

 1950年代以降に動力散粉機や動力耕耘機、トラクターが出現し、1970年代以降に田植機やコンバインなどの農業機械が普及してくると、高齢者や女性の農作業の負担は軽減され、兼業もいっそう盛んになりました。しかし同時に、若者を中心として離農傾向は強まり、農家数は減少して農地も農業も縮小していきました。15歳以上人口のうちの農業就業者は、1950年には男性35.9%、女性60.5%でしたが、1975年になると男性9.6%、女性17.7%となり、2000年には男性4.3%、女性5.2%にまで減少しました。

 農村は、かつては停滞していたとしても維持はされており、離農した人々が戻る余地がありました。しかし、「都市に対する農村の経済的地位の相対的低下、なかんずく過剰人口吸収の場としての下層農家の経済的悪化、これに伴う兼業農家とくに第二種兼業農家の一貫した増大を通じての農業以外の産業への進出等、農家経済自体に過剰人口のプールとしての役割をはたす機能が著しく低下した」[*3-12]。高度経済成長期以降は、農村はさらに変容し、地域によっては失われました。農業から離れた人々が将来的に農業に戻ることも難しくなりました。


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