0202 最低限生活からの脱却

 高度経済成長期前の1951年の「家計調査」では、総消費支出額に対する食料費の割合(エンゲル係数)は、51.7%でした。(なお、1951年「労働経済の分析」[*2-7]の5人世帯30日換算支出額によると、1947年に66%で1951年には54.3%でした。「家計調査」より高いものの、近い値です。)被服及び履物費が13.8%、住居費が4.9%でした。生活に最低限必要な衣食住で70%を占めていました。住居費の比率が低いのは、調査対象者に持家居住者が7割程度含まれていたためです[*2-8]。1926年ごろの工場労働者の調査では住居費が18%にのぼっていました[*2-9]。

 食料費と被服及び履物費の割合は、1950年以降次第に低くなる傾向にありますが、それ以前の終戦直後から1950年までは戦後の混乱期であり、配給制度が機能せずにヤミ市で食料品や物資が高値で売られました。また家賃も、統制がかかっていたとはいえ住宅不足を背景に高止まりしていました。1951年時点とくらべても、食料費と被服及び履物費、住居費の衣食住で消費支出のほとんどを占めていたと想像できます。

 衣食住以外の1951年の支出は、家具・家事用品が0%、光熱・水道費4.9%、交通・通信費1.5%、教養娯楽費4.8%、教育費2.1%、保健医療費5.3%、その他10.8%でした。このうち、住居費、光熱・水道費、保健医療費への支出比率はその後もあまり変わりませんが、家具・家事用品や交通・通信費、教養娯楽費、教育費などの支出はその後少しずつ増大しました。1950年代前半の家計支出は必要最小限に抑制されていたといえますし、衣食住以外に支出すべき対象が多くなかったともいえます。

 
 図 実支出中、家計支出の構成(2人以上の勤労世帯)

 1957年「厚生白書」[*2-10]は、「わが国は国際的には後進地域の一つとして経済援助や技術援助を先進国から与えられており、国連の各種の資料もわが国を後進地域の一つとして分類している」として、生活のいくつかの側面を他国と比較しています。所得に関しては、「アメリカ、イギリスおよび西ドイツは、日本のそれぞれ約九倍、四倍、三倍に当っている。・・・イギリスに対して後進的」であり、消費水準についても「相対的な高さは大体において変らない。他の諸国、たとえばヨーロッパの諸国を例にとってみても、日本よりも低位にあるのは若干の東欧諸国のみで、しかもチェッコスロヴァキアのごときは日本よりも高い水準にある」としています。

 家計支出の内容については「ごく大まかな意味では、基礎的な生活条件の充実よりも目先の文化的消費に追われるという傾向が、西ドイツとの比較において日本においては強いといえるのではなかろうか」と記し、生活水準全般については、「わが国における生活水準は、ある局面をあらわす指標について見るならば欧米先進国と比較して、はなはだみじめな立遅れを示しているが、逆にまた他のある局面をあらわす指標について見れば先進国の水準に極めて接近し、場合によってはこれを凌駕しているものすらある。」と述べています。

 なお日本は1946年から51年にかけて約18億ドルの経済援助をアメリカから受け、1953年からは世界銀行からの巨額の融資を受けました[*2-11]。また学校給食用の脱脂粉乳や小麦粉が、アメリカなどから1950年ごろから一定期間寄付されました。

 生活環境を含めた全般的な生活水準は未だ低くはありましたが、このころの経済成長率は世界一であり、生活水準も、まだら模様ながら急速に向上しました。1956年「国民生活白書」[*2-12]は、「昭和30年における国民所得は26年を100とすれば、130.6%に達し」ているだけでなく、消費内容、生活様式も変化していて、「電気洗濯機、ミキサー、テレビ、蛍光灯、ビニール製品、プラステイックス製品」が急速に普及していて、商品の品質やデザインも大きく変貌していると述べています。

 
 図 各国の経済成長率

 その背景を同白書は、「敗戦後米国からの援助物資や輸入が中心となり、ことに駐留軍と駐留軍家族はつぎつぎに・・・珍しくて便利な生活用品を紹介した。そしてわが国の企業家はいち早くこれをとり入れ、優秀にして割安な国産品を製造し、新聞・ラジオは今までにない宣伝機能を発揮して、たくみにこれら新製品の普及をはかった。その上朝鮮動乱ブームに続く景気の上昇、国民所得の増大の結果、これらを消費生活にとり入れることを可能にした」と説明しています。


前の目次項目へ        次の目次項目へ

【テーマ:生活と家計】   次のテーマ項目へ