05.生活の向上と生活環境の整備

0501 生活基盤の整備

 1956年「国民生活白書」[*5-1]によると、国民一人当たり消費熱量の内訳は、戦前には薪が39.8%、木炭が25.6%、石炭が23%などでした。薪は、農山村では自給されることから、実際にはそれ以上が利用されていたとみられます。1950年代にも、燃料は薪と木炭が中心で、1951年に消費熱量自体が減り、薪の比率が46.6%に増加しました。1955年には薪の比率は39.8%に減少し、木炭は18.5%、石炭は21.5%となりました。比率が高くなったのは練豆炭9.1%、灯油4.9%です。都市ガスは戦前からありましたが、普及は遅く、1955年で6.2%程度でした。

 
 図 家庭での燃料消費量(TWh)-50TWhまでを拡大して表示

 1954年家計費から推計した一人当たり消費熱量で都市と農村をくらべると[*5-2]、農村では薪が95%と圧倒的であり、木炭が4.5%でした。都市でも薪が31.3%、木炭が19.9%と多いのですが、石炭が27.7%、都市ガスが8.8%、灯油4.7%、煉豆炭7.5%など種類が多くなっており、かさばって火力調整が難しい薪の比率が低くなっています。
 都市ガスの使用世帯は、1955年には全国で244万世帯で、京浜地域95万世帯、京阪神地域77万世帯、名古屋市15万世帯、他には北九州市、広島市です。いずれも大都市で普及していきました[*5-3]。都市ガスは、ガス基地やガス管敷設にコストがかかるため人口の集積した地域から供給が進められ、普及には時間を要しました。その代わりとして普及が進んだのがLPGガスです。都市ガスが利用できない地域で1980年ごろまでに普及が拡大しました。

 
  図 家庭での燃料消費量(TWh)

 電気は、1920(大正9)年ごろは世帯の6割程度の普及率だったと思われますが、急速に普及しました。1941(昭和16)年の電灯契約口数は1,451万口で、これに対して1940年の世帯数は1,434万世帯でした[*5-4]。電力は山奥など一部地域を除いて、ほとんどの地域で利用されていたと想像されます。契約口数は戦時中に減少しましたが、戦後になると増加しました。

 家庭の電力消費量は、1951年に5.9TWh(「T」(テラ)は10の12乗)で、1955年には7.7TWhでした[*5-5]。1955年の消費量は、1世帯の1日当たり約1.2kWhに過ぎません。1日に6時間使用するとすれば1時間当たり200Wの電力であり、60Wの白熱電灯であれば3球を灯す程度でした。また当時の真空管ラジオは25W程度でした。多種多数の電気製品が使用されている今日からみると極めて質素な電気製品の利用状況でした。

 その後の電力需要は、総量としても人口1人当たりとしても2000年ごろまで伸び続けました。2005年には、温室効果ガス排出量の削減を内容とする京都議定書が発効し、政府主導で「クールビズ」が提唱されました。冷房温度を28度以上に設定するなどの呼びかけで電力需要の上昇は抑制されましたが、2010年は記録的猛暑で電力消費はピークとなりました。翌2011年、東日本大震災によって東京電力福島原子力発電所が致命的な被害を受けたことによって、全国的に省エネルギー意識が強まりました。またLED照明など、省エネルギー型の電気機器が普及し始めたこともあって、電力消費量が逓減していきました。

 水道は今日では100%近い普及率ですが、1956年には37.5%に過ぎませんでした。東京では江戸時代に上水が、ほかの大都市では明治時代に近代的水道が整備されましたが、農村部や地方では井戸や湧水、河川を利用するところがほとんどでした。都市部でも市街地の拡大に整備が追いつかないところもありました。

 都道府県別には1960年に、大阪府で91.7%程度、東京都、神奈川県、京都府、兵庫県でも70~80%の普及率でした。しかしそれ以外の地域では、関東地方の茨城県13.8%、栃木県21.5%などと普及が遅れ、ほとんどの道県では30~40%でした。しかし1980年代になるとほとんどの都道府県で90%を超すようになりました。

 
 図 公共下水道等の普及率

 下水道の普及は水道よりも遅れました。排水区域は、人口比で1960年8%、1970年でも18%に過ぎませんでした。処理区域は、当初は排水区域に追いついていませんでしたが、1970年代からは排水区域と処理区域が一致するようになりました。処理区域は1980年に30%となり、2015年で80%に近づいています。1970年代には毎年1万から2万ha、1980年代には4万ha以上の面積に下水道が敷設されました。市街地の拡大によって整備面積が増加していったことがうかがえますが、郊外ほど人口密度が低いために次第に効率が悪くなったと考えられます。

 水洗便所の普及率は1960年3%、1970年10%、1980年23%、1990年39%、2000年56%と次第に上昇しました。「住宅統計調査」および「住宅・土地統計調査」では、下水道と接続していない簡易式を含むと1963年に9%、1978年に46%、2003年に88%となりました。

 電話については、固定電話の加入者数は、戦前には100万件程度で推移し、ほとんどは業務用でした。住宅用固定電話は戦後に広がっていきました。住宅用は1955年に18万件、1963年に102万件、1972年に1,137万件、1996年には4,245万件に達しました。初期は電話交換手が手動で接続していましたが、自動化が進み、自動交換機も改良されました。2006年に通信方式もアナログからデジタルへと変わっていきました。

 固定電話が広く利用されるには通信施設を設置し、通信線を張り巡らすので膨大なコストがかかります。加入者は設備のコストの一部を負担することで日本電信電話公社(略称・電電公社、現・NTT)から電話加入権を取得して電話機を設置することができました。電話加入権は今日でも存在しますが、金額は低くなっています。1970年代までの負担額は当時の物価水準からはかなりの金額でしたが、需要に対して供給が追いつかず増加は緩慢でした。

 表 加入電話の施設設置負担金の推移
 
 
 図 電話加入数

 1960年代までは、固定電話が設置されているのは事業所や病院、裕福な家ぐらいでした。大半の世帯は、必要なときは電話機のある近所の家の電話機を使用し、着信の際の呼び出しもしてもらっていました。農村では農協(現・JA)の電話機が利用され、電話があれば全村向けの拡声器で呼び出すところもありました。また委託公衆電話として店舗や飲食店などに設置される赤電話やピンク電話、電話ボックスに設置される青(緑)電話がありました。緊急の連絡には電報が使われました。

 電話も公益事業ですが、必需性は電気やガス、上下水道ほど高くはありません。当初の加入者は地域のごく一部で、実態としてはコミュニティ単位で利用され、コミュニティの共同利用設備のような位置づけだったともいえます。が、普及が進むにつれて、電話は世帯に1台以上が保有されることになり、世帯が使用単位となりました。

 上下水道管、ガス管、電気架・配線、あるいは道路・橋梁・トンネルなどの交通設備といったライフラインと、これに教育文化施設や行政施設などの公共施設を加えたいわゆるインフラストラクチャーは、高度経済成長期を中心に、公共団体や公益企業、準公共的機関によって整備が進められました。しかしその後、2000年代に入ると、それらのインフラストラクチャーは、劣化や耐用年数超過、改正された耐震基準に対応していない、時代の要請や条件に合わない、などの理由で再整備・再検討を迫られるようになりました[*5-6]。


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